聞こえる家族がDeafVRを体験してみた。聞こえにくい私がその感想を聞いてみた

日常生活

DeafVRを知ったきっかけ

9月23日は「手話の日・手話言語の国際デー」です。令和7年に施行された手話施策推進法で、9月23日が「手話の日」と定められました。

当日、都庁で「TOKYO 共生社会 障害理解啓発キャラバン」が開催されました。

あいにくの雨模様でしたが、「少しだけでも行ってみよう」と出かけることに。

そんな中で知ったのが、DeafVRでした。

会場には体験ブースが出ており、気が付いたら家族が体験していました。

話を伺ったところ、DeafVRは、🔗聞こえる人がVRを通して、聞こえない・聞こえにくい人の世界を疑似体験できるものとのことでした。

※↑この文にリンクを貼らせてもらいます。


DeafVRの体験ブースに設置されたVRゴーグル

実際にどのような体験ができるのか気になり、家族が体験することに。

体験を終えた家族が、一言。

「結構びっくり、怖かった」

とつぶやきました。

VRでどんなことを体験したのか。そして、なぜ「結構びっくり、怖かった」という感想になったのか。家族に詳しく聞いてみました。


夫が実際にDeafVRを体験

ここからは、実際にDeafVRを体験した夫に、体験したときのことを書いてもらいました。

DeafVRを試したのは、深い志があったからではない。単に、VRに興味があっただけである。

まず私について少し話しておくと、私はYukiの夫である。聴覚障害については、結婚するまでほとんど知識がなかった。恥ずかしながら、今もそれほど詳しいわけではない。

さすがにYukiの聞こえについては調べたことがあるが、裏を返せばそれくらいである。補聴器を付けていれば彼女とは問題なく会話ができるので、日常で事細かな配慮をしているわけでもない。

強いて言えば、テレビを見るときに自然と字幕を付けるようになったくらいだ。良く言えば「特別扱いしていない」となるのかもしれないが、それは無関心や無知と紙一重だろう。

書いていて本当に情けないが、これが嘘偽りのない、体験前の私だった。

そんな私が9月23日、Yukiに連れられて足を運んだのが、都庁で開かれた「手話の日イベント」である。「TOKYO 共生社会 障害理解啓発キャラバン」の一環として行われていたものだ。

正直に言えば、このイベントが目当てだったわけではない。近くで気になる催しがあり、そのついでに立ち寄ったというのが実情だ。

とはいえ、行った以上は何かやってみたいと思うのが人の常である。そこで目に留まったのが、CNS Inc.が出展していたDeafVRだった。

「聞こえない・聞こえにくい世界を疑似体験できる」。それは私にとって気になる謳い文句だった。普段Yukiがどんな世界にいるのか知りたい気持ちが半分、降りしきる雨を避けてテントに入りたい気持ちが半分。ブースで体験したい旨を告げると、すぐに案内してくれた。

スタッフの方にVRゴーグルとヘッドホンを付けてもらうと、目の前にどこにでもありそうな住宅街の路地が広がった。ヘッドホンを付けた瞬間、テントの外の雨音や人のざわめきがすっと遠のいた。首を左右に振ると、景色もそれに合わせて動く。塀、電柱、植え込み。本当にその道に立っているような感覚に、思わず小さく声が漏れた。

正直なところ、この時点の私はまだ、新しいゲームを始めるような気分でいた。

私が体験したのは「通学路編」という三分ほどの映像である。歩道のない路地を一分ほど歩く同じ場面を、聞こえ方を変えて三回体験する。最初は重い難聴、次はそれより少し聞こえる難聴、最後が聞こえる人の聞こえ方だ。

一回目、最も重い難聴のパターン。不思議なほど音のない道を歩いていると、突然、すぐ横を車が通り過ぎた。タイヤの音もエンジン音も聞こえない。文字通り、湧いて出たように車が現れたのだ。私は普段ノイズキャンセリング機能付きのイヤホンをよく使うが、それとは比べ物にならなかった。そこには、音のない世界があった。

ノイズキャンセリングは、あくまで外の音を「減らす」ものだ。けれど、あの路地には、減らす前の音そのものが最初から存在しないように感じられた。ゴーグルの中の景色は穏やかな昼下がりそのものなのに、耳だけが世界から切り離されている。その噛み合わなさが、じわじわと落ち着かなかった。

 二回目もほぼ同じだったが、わずかに車の走行音が聞こえた。少し余裕ができたのか、こんなにすぐそばを平然と走り抜けていく車に、かすかな苛立ちすら覚えた。

そして三回目、聞こえる人の聞こえ方で、私は『種明かし』を受けることになる。同じ場面なのに、横を通り過ぎる車がクラクションを鳴らしていたことに、そこで初めて気が付いたのだ。

無遠慮に走り抜けたと思っていた車は、ちゃんと警告をしてくれていた。それなのに、重い難聴の状態はもちろん、それより軽い難聴の状態でも、私にはその音が聞き取れなかった。

驚きはそれだけではなかった。路地脇の家から、車が出てこようとしていたのである。前の二回では、まったく気付いていなかった。聞こえる状態なら、よそ見をしていてもエンジン音で気付けたかもしれない。しかし難聴の状態では、二回とも私にはそれが分からなかった。

三つのパターンの中で一番印象に残ったのは、意外にも一回目と二回目の差が、思っていたほど大きくなかったことだ。二回目は確かに「何か」が聞こえた。車が近くにいる気配くらいは分かった。

けれど、それがクラクションなのか、エンジン音なのか、ただの風の音なのか、私には区別がつかなかった。

音が「少し聞こえる」ことと、音の「意味が分かる」ことは、まったく別のことだったのである。二回目の私は、音が聞こえることで、かえって「分かったつもり」になっていたのだと思う。

ゴーグルを外すと、テントを叩く雨の音が一気に耳へ流れ込んできた。人の話し声、遠くのアナウンス、誰かの笑い声。さっきまで当たり前に聞こえていたはずの音が、まるで初めて聞く音のように感じられた。

「どうだった?」とYukiに聞かれて、私はうまく答えられなかった。口から出たのは「……怖かった」という一言だけだった。

何が怖かったのか。音のない世界そのものではない。一番怖かったのは、自分が危険の中にいることに、まったく気付けなかったことだ。

一回目も二回目も、私は自分が危ない目に遭っているとは思っていなかった。それどころか、乱暴な運転をする車に腹を立ててさえいた。相手はちゃんとクラクションで知らせてくれていたのに、私はそれを知らないまま、相手を悪者にしていたのである。画面の中の私は、ただ前を向いて歩いていただけなのに。

もしこれが現実だったら。もしあの家から出てきた車が、私に気付かないまま動き出していたら。三回目の映像を見て初めて、私は一回目と二回目の自分がどれほど無防備だったかを知った。危険そのものよりも、危険を知らずにいたことの方が、ずっと怖かった。

体験した夫の感想

 一番印象に残ったのは、鳴っていたクラクションにまったく気付けなかったことだ。思っていた以上に、私は音に頼って身の安全を確かめていたのである。

もちろん、これはVRによる数分間の疑似体験にすぎない。実際の生活では、聞こえにくい人も目などほかの手がかりを使って周囲に注意を払っているはずだ。それでも、私たちの暮らしの中で音がどれほど大きな役割を果たしているのかを、身をもって思い知らされた。

私にとっては数分の体験だったが、聞こえにくい人は、日常生活の中で音から得られる情報が少なかったり、音だけでは状況を判断しにくかったりすることがある。

言葉にすれば当たり前のことだが、自分の中の「当たり前」を見直すとまではいかなくても、顧みるには十分な体験だった。

体験のあと、一番考えたのはYukiのことだった。

これまで私は、補聴器を付けていればYukiは「普通に」聞こえているのだと、どこかで思い込んでいた。会話は問題なくできる。だから、困っていることはそれほどないのだろう、と。けれど、二回目のパターンで味わった「何かは聞こえるのに、それが何か分からない」という感覚を思い出すと、その思い込みが静かに崩れていった。

補聴器は、聞こえを完全に元通りにするものではない。調べれば分かることなのに、私はそれを自分の暮らしに当てはめて考えたことがなかった。私たちの会話が成り立っているのは、もしかするとYukiが、聞き取りにくい部分を表情や口の動き、話の流れから補ってくれているからなのかもしれない。

私が「普通」だと思っていた毎日の裏で、彼女はずっと、私の知らない小さな努力を重ねていたのかもしれない。私が知らなかっただけで、彼女にとってはずっと前からの日常なのだろう。そう思うと、胸の奥が少し痛んだ。

思い返せば、テレビに字幕を付けるようになったのも、私が気を利かせたからではない。Yukiが何度か聞き返すうちに、いつの間にかそれが我が家の当たり前になっていただけだ。

別の部屋から名前を呼んで返事がなかったとき、「聞いてないな」と少しむっとしたこともある。あの時、彼女は聞いていなかったのではなく、聞こえていなかったのかもしれない。体験してみて初めて、そんな小さな場面の一つひとつが違って見えてきた。

クラクションが聞こえない人がいる。声をかけても聞き取れない人がいる。

そのことを思いながら、一緒に帰るYukiに、少しだけ歩調を合わせてみようと思った。

聞こえにくい私が、家族の感想を聞いて感じたこと

今回の感想で、面白いなと感じたのが、「ノイズキャンセリング機能付きのイヤホン」との比較です。

「分かりやすいな!」

そう思いながら読んでいました。

そして、VRで流れたという、道を走る車の音。

私自身、徐々に聴力が落ちてから、車の走行音は聞こえず、クラクションやサイレンは分かるという状況です。

ただ、その音も「どこから鳴っているのか」が分かりません。

サイレンが鳴れば、辺りを見渡して、救急車などを目で確認し、どこからどこへ向かっているのかを把握しています。

でも、こうした状況を言葉で説明するのは難しいです。

例えば、細い道を歩くときは、なるべく塀や建物側を歩くようにしています。車が近づいてくる音が聞こえにくいため、後ろから車が来ていないか、振り返って確認することもあります。

補聴器をつけていれば、車の走行音などもある程度聞こえるので、必要なときは補聴器をつけて歩くこともあります。

こうしたことは私にとっては普段のことですが、家族からすると、実際に体験してみなければ分からなかったことなのかもしれません。

だからこそDeafVRを体験して、聞こえにくい人の日常を少し垣間見てもらえたのは、良かったなと感じました。


DeafVRは「聞こえない」を知るきっかけになる

「聞こえない」「聞こえにくい」と言葉で説明されても、実際にどのような状態なのかを想像するのは、簡単ではないと思います。

私自身も、家族に自分の聞こえ方を説明することがあります。

「車の音は聞こえないけれど、クラクションは聞こえることがある」

「サイレンが聞こえても、どこから鳴っているのか分からないことがある」

と説明しても、実際にその状態を経験したことがなければ、なかなかイメージしにくいのではないでしょうか。

今回、家族がDeafVRを体験したことで、私が普段どのように音を聞いているのかを、少しだけ想像してもらえたように感じました。

もちろん、数分間のVR体験だけで、聞こえにくい人の日常をすべて分かるわけではありません。

それでも、「聞こえにくいって、こういうことなのか」と考えるきっかけにはなる。

私は、DeafVRにはそんな意味があるのではないかと感じました。


現在、DeafVRを広める活動も

DeafVRは、今回私たちが体験したようなイベントへの出展だけでなく、企業や学校、自治体などでも体験の機会を広げています。

「聞こえない・聞こえにくい」ということを、言葉で説明するだけではなく、実際に体験してもらう。

今回、家族がDeafVRを体験したことで、その意味を少し身近に感じることができました。

これからも、こうした体験の機会が広がっていけばいいなと思います。


まとめ

今回、家族にDeafVRを体験してもらったことで、普段一緒に生活している私の聞こえ方について、改めて考える機会になりました。

家族にとっても私にとっても、普段は意識していなかった「聞こえること」について考えるきっかけになったと思います。

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